Tetsu Construction

こんな、構造物なんだ!

借り物#4

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 それでは、今回は、近鉄名古屋線木曽三川橋梁関連の、最終回です。

 昨日の場所の少し西、長良川の堤防に近い場所に、写真のような橋台跡が残ります(写真)。コンクリートで固められますが、中からは煉瓦積みが見えており、明治期の煉瓦構造物であるのが分かります。

 この向こう側が現在の揖斐・長良川橋梁、その昔の橋台になります。元は関西本線、遡れば明治期の私鉄、関西鉄道に行き着きます。

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 反対側も期待されますが、残念ながら現在は、築堤も含め跡形無く、痕跡も堤防の補強で残っていません(写真)。また、橋脚跡も河川に標識も無く、ほぼ痕跡はありません。

 それから半世紀も経ち、痕跡は無くなりつつありますが、未だ少数残っています。探訪は、如何でしょうか。

 それでは、次回をお楽しみに。

借り物#3

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 それでは、今回も引き続き、近鉄名古屋線木曽三川橋梁関連をお届けします。

 桑名市、旧長島町を西に移動、間もなく長良川という場所に、写真のような小さな橋梁があり、その南側には単線の橋台の跡が残ります(写真)。これは名古屋線の旧線跡、旧橋梁のようです。なお、この位置を旧来の関西本線が、明治期の「関西鉄道」の頃、通っていたと思われます。

 そして、もう少しで長良川、「揖斐・長良川橋梁」に、差しかかります。

 それでは、次回をお楽しみに。

借り物#2

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 それでは、今日は、引き続き近鉄名古屋線木曽三川橋梁をお届けしたいと思います。

 JR及び近鉄木曽川橋梁の三重側、則ち桑名市(旧長島町)には、写真のようなコンクリート製の橋脚が立っています(写真)。位置的には、近鉄とJRの間です。

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 周りの風景を入れると、こんな感じです(写真)。桑名側は、築堤に繋がっています。

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 その、築堤の途中には、橋梁の跡が残ります(写真)。架かっている姿が、目に見えるようではありませんか!

 そして、現在の近鉄名古屋線方向に下がって、繋がっています。

 これも、伊勢湾台風の被害の一つという言い方も出来ます。再び列車が戻ることはありませんでした。

 それでは、次回をお楽しみに。

借り物#1

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 それでは、今回は、近鉄名古屋線に係る橋梁をお届けしたいと思います。

 三重から進出した、大阪電気軌道の子会社、参宮急行電鉄は、伊勢鉄道を傘下に収め、名古屋への進出を計画していました。ちょうどその頃、関西鉄道、後の関西本線木曽川及び揖斐・長良川橋梁が、架け替えで余剰となったため、これを再利用するという計画を立て、実施されました。戦後、改軌を前提とした架け替えが行われたところ、ちょうどその時期にいわゆる「伊勢湾台風」災害があり、災害復旧と併せ改軌が前倒しとなり、旧橋梁は廃止となりました。その、旧橋梁を巡る話です。

 木曽川橋梁愛知県側には、写真のようなコンクリート橋梁があり、JRを乗り越そうという形になっています(写真)。旧橋梁は、関西本線現橋梁の北側であり、乗り越す必要がありました。てっきり伊勢湾台風の災害跡と思っていましたが、時期的にはそうですが正確にはそうではありません。

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 乗り越した先は現在道路橋となり、河川管理用の道路となっています(写真)。

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 水面の部分(写真)。現在の近鉄名古屋線木曽川橋梁は、JR関西本線の南側になり、伊勢湾台風直前に竣工したとのことです。旧橋梁は撤去されていますが、現在も基礎が残るらしく、通過する舟運等に注意標識が立ちます(写真)。

 竣工と災害が同日であったため、一気に切り替えが行われました。しかし、災害復旧と同時に改軌を行ったのは、英断です。

 それでは、次回をお楽しみに。

山中の隘路#3

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 それでは、今回も引き続き、北陸本線旧線の遺構を見ていきたいと思います。

 刀根を過ぎると間もなく疋田、新疋田で現在線と合流、敦賀に至ります。そこからは現在は、南今庄まで当時国鉄最長の「北陸トンネル」一本で抜けますが、このような長大トンネルを掘る技術が無かった時代、山中を縫うようにトンネルを通過しました。現在、それらのトンネル及び旧線は道路と変わり、一部用地は北陸自動車道に利用されます。単線のため、一部には信号がありますが、大半はそのままです。

 そして、そのサミットに当たる場所に、トンネルと、少し広い場所があります(写真)。

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 その南側には、トンネルの入口がありますが、出口はなく行き止まりです(写真)。

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 そして、その周辺は平坦で、広い敷地となり、現在は草生し、放置されます(写真)。

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 東側には、構造物があり、スノーシェッドのようです(写真)。鉄道遺構らしい雰囲気です。

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 この場所は、鉄道行き違いのために設けられた「山中信号場」跡地で、ここで上下線が行き違いました(写真)。最初の出口の無いトンネルは引上線、反対側の広場は待避線で2線分ありました。そして、ここからは一定勾配で何キロも下り、南今庄に至ります。道路は、本線跡です。

 現在では考えられないような設計の部分もありますが、当時の土木技術ではそれが限界で、やむなく建設されたものです。昔の鉄道の、困難さが分かります。

 それでは、次回をお楽しみに。

山中の隘路#2

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 それでは、今日も引き続き、北陸本線旧ルートのトンネルを見ていきたいと思います。

 柳ヶ瀬トンネルを過ぎ、少し進むと、北陸自動車道が近づき、2車線のトンネルがあり、これが刀根トンネルです。

 そこを振り返り、小さな橋を渡り、少し進むと、写真のような石積みの古いトンネルが現れます(写真)。

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 同トンネルのアーチの要石には、「明治十四年」と刻印が入ります(写真)。

 このトンネルが「小刀根トンネル」、明治14年の姿を残す、貴重なトンネルです。

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 トンネルを抜け南側(写真)現在周辺は、個人所有地の畑のようです。通る人もほとんど無いようです。そのため、現在まで残ったようです。

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 出自の看板(写真)。同時期に、柳ヶ瀬トンネル、小刀根トンネル、刀根トンネル、曽々木トンネルが貫通し、敦賀までのルートが完成しましたが、柳ヶ瀬トンネルは改変、刀根トンネルは拡幅で姿を留めず、曽々木トンネルは消滅し、現存でかつ当時のままはこの小刀根トンネルのみとのことです。それほど、貴重なトンネルです。

 山中奥深く、高速の側とはいえ細い道で、しかも私有地に近いのは不安ですが、北側入口までは車で行けそうです。機会があれば、ぜひどうぞ。

 それでは、次回をお楽しみに。

山中の隘路#1

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 それでは、今日からは、北陸本線旧ルートのトンネル群をお届けします。

 滋賀県、旧木之本町から一般国道を北上すると、右に分岐後下を潜り、左に抜ける道があります。抜けた場所には、トンネルがあり、1車線分しか無く、信号で通行が規制されています(写真)。

 このトンネルが、日本初の長大トンネルとなる柳ヶ瀬隧道で、深坂トンネル開通で北陸本線のルート変更後、暫く「柳ヶ瀬線」というローカル線として維持されるも、間もなく廃止、道路トンネルに転用されました。

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 北側出口(写真)。こちらは、石積みの立派なポータルが残っています。

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 道の脇には、石碑が建っています(写真)が、少し読みづらくなっています。

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 その横には、平成になってから建てられた、土木学会推奨土木遺産のプレートと碑が建っています(写真)。

 北陸と関西のショートカットを目的に、敦賀~長浜間に鉄道敷設が計画され、そのルートとしてこの柳ヶ瀬隧道は完成、ルート完成により北陸からの輸送が、船で約半年だったのがが3日に短縮、劇的な変化をもたらしました。近代化です。

 それでは、次回をお楽しみに。

追憶#4

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 それでは、今回も引き続き名鉄美濃町線(廃止)美濃駅跡の保存車両、最終回です。

 写真は軌道形の車両モ593です(写真)。元名古屋市電(廃止)のようで、同市の主力であった1400形と思われます。

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 車内(写真)。シートが残り、現役当時を彷彿とさせます。

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 運転台(写真)。大型のマスコンに、簡易なブレーキ弁、圧力計が見えています。速度計は無いようです。

 名古屋市1400形は、主力であるのみならず、戦前形電車の到達点として、「傑作」と最高の評価がなされています。以降は戦時設計で技術が下がり、戦後復活まで長く時間がかかりました。しかし、それを今も見られるのは幸運です。

 それでは、次回をお楽しみに。

追憶#3

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 それでは、先回に引き続き、名鉄美濃町線(廃止)美濃駅の保存車両を見ていきたいと思います。

 今回は、モ510形モ512です(写真)。人気の同形、全廃後も大半が静態保存されます。

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 車内(写真)。展示用に座席は全部撤去され、がらんどうです。

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 運転台(写真)。マスコンエアブレーキ、他簡易な施設で、速度計も見当たりません。軌道線の車両のようです。

 谷汲のモ514が車内見学を中止している関係で、現在車内が見れる同形唯一の車両となっています。座席はありませんが、貴重です。

 それでは、次回をお楽しみに。

追憶#2

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 それでは、今日は、先日の美濃町線美濃駅の、保存車両をお届けしたいと思います。

 写真は、美濃町線で活躍したモ600形モ601です(写真)。1両で複電圧に貫通路でてんこ盛りの同車、そのため冷房を載せるスペースが無く、結果早期に引退しました。

 なお、同形現存は同車のみのようです。本形方向幕が特徴です。

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 車内(写真)。現役当時はロングシートでしたが、展示施設用に撤去されたようです。

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 運転台(写真)。マスコンと速度計は貫通路に固定、動かせないエア系は右側に固定されます。

 設計的にもギリギリで、更に田神線経由で各務原線に乗り入れで600V、1500V両用となり、1両としては限界まで機器を載せた感じがします。以降は余裕がある車両となり、非冷房の同車は引退しました。

 それでは、次回をお楽しみに。